お知らせ

スローシティ気仙沼でスタディツアーを実施しました!

 2024年2月7日から9日、スローシティをテーマとした気仙沼市でのスタディツアーを東洋大学国際学部鈴木ゼミが実施しました。スローシティ(イタリア語でチッタスロー)運動は、1999年にイタリアの地方小都市で始まった取り組みです。大都市とは違った人間サイズのまちや地域での「ていねいな暮らし」を持続可能なものにして、そこに暮らす人が「よりよく生きる」ことが、スローシティ運動の目的です。そのためには、地域にないものではなく、あるものや失われつつあるものを活かし、まちの個性と多様性を尊重したプロジェクトを都市政策に反映させて、市長、行政、市民が協働して実践するための枠組みです。チッタスロー国際連盟は、7つの認証評価基準―①エネルギーと環境政策、②インフラ対策、③都市政策の質、④農業、観光、伝統工芸に係る政策、⑤ホスピタリティに係る政策、⑥社会的包摂、⑦パートナーシップ―を設けて、認証を得た世界290都市の「よりよく生きる」を指南しています。気仙沼市は、2013年に日本初の国際認証を得た都市です。
 今回は東洋大学国際学部の鈴木ゼミで地域づくりを学ぶ学生10名が2泊3日で以下の現場を訪れました。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館
● 気仙沼市役所 菅原茂市長
スローフード気仙沼 菅原昭彦理事長
● 気仙沼市震災復興・企画課
気仙沼地域エネルギー開発(株)
● 内湾地区スクエアシップにて、学生の研究発表「東京からスローシティ前橋赤城と気仙沼をつなぐ」
 以下では参加した学生たちが作成したフィールドノートと感想を基にスタディツアーを紹介します。

1. 気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館にて

 伝承館で語り部のガイドさんから話を聞いた。津波の映像を見た時、分からず津波の方面に車を走らせてしまう人、屋根の上で取り残されてしまった人、津波をただただ高台から見つめている人、書き出しきれないほどの人が映像に映っていて、私はとても衝撃を受けた。あの人は無事なのかな、今何しているのだろう、と考え始めるとキリはないが、繋がっていた船のワイヤーが切れるのをみるとどれだけ津波の影響がひどかったのかを知ることができた。

 事前学習で私は震災復興について学習したため、死者や行方不明者の被害を調べていた。しかし、今回お話を聞いたところ、実際の死者・行方不明者が増えていたことを知って悲しくなった。身内が亡くなってしまったけれど頑張って生きている人もいるんだと思い、自然災害は起こってしまうものだけれど、震災は起こってはいけないものだと改めて実感した。避難の際、向洋高校の生徒たちが独自の判断でより遠いところに避難したと聞いた。普段からの避難訓練と住んでいる地域のハザードマップを確認しておくことの重要性を学んだ。だが、東日本大震災では地域のハザードマップで安全とされていた場所まで津波が来てしまった。「ハザードマップは絶対じゃない」と語り部さんがおっしゃっていて、震災に合わせて避難することも重要ということに気付かされた。

 残された学校の校舎内部を見てまわった。隣の部屋でも天井の残り具合が違うのをみて、窓のところに斜めの筋合いが入っていて、さらに窓が少し他の教室に比べて小さかった。この高校を建設する際に震災が起こった時のことも考えていた。にもかかわらず、校舎が使えなくなるほどの津波が来たと考えると、そのすさまじさに言葉を失った。2階、3階そして屋上を見て回り、木があったり、車があったり、魚が落ちていたり、ここでは津波がどの高さまで来たかを考えさせられた。4階の天井がきれいで、その場にあるレターケースのサビのところまで津波がきていた事が理解できた。屋上で残った先生達の責任の強さに驚いた。さらに、外には津波の渦によって車が積み重なっていたり、縦になっているものも見たことが一番の衝撃だった。

 震災3日目の夜からご飯が届くようになって「生きてるように感じた」と聞いた。寒さで体力も奪われて精神的にも苦痛がすごいのに、3日間食べるものがないなんて想像してもしきれなかった。翌々日に携帯電話会社が500メートル内なら通信可能な環境を作った話を聞いて、今よりもまだITが進んでいない時期に、企業の動く速さに感動した。家が全壊して親戚の家に住み、水を汲んで家に水を貢献していた少年の話を聞いて、小学生でも動いていたんだなぁと思った。その後実際にニュースで放送された、震災後の家族の話などを聞いて、涙が止まらなくなった。伝承館へ行き、今までは東日本大震災について「大きな地震が起こった」というイメージであまり詳しくは知らなかったが今回実際に訪れてみてより震災のリアルを感じた。当時のニュースなどで放送されていたよりも残酷で、今までももちろん震災は来ないでという気持ちはあったがより強く震災は起こってはいけないことを学ぶことができた。今ある日常が普通ではないし、家族、友達などがいることも当たり前ではないと改めて思って、大事にしようと思った。

(東洋大学国際学部3年 鈴木さん)

2.  気仙沼市役所にて菅原茂市長と菅原昭彦会頭のお話し

 菅原市長のお話しから、伝承館が残された経緯や震災当時の印象を聞いた。実際に経験した方にとって車が積み重なっている光景は、当時は見慣れていたものであり、むしろ校舎3階まで車が流された方が驚きだったと聞いた。実際に経験した方と私が感じたものと違っていた。“海と生きる“の英語は「live with the ocean」ではないのか、と当時聞かれたことがあるという。当時の気仙沼ではliveではなくstayだった。それは2011年10月の気仙沼の人々にとって、気仙沼に残るという気持ちがあったのではないかと市長はお話しされた。ただ翻訳をするのではなく、地元の人の気持ちがこもっていることを知った。これからもずっと「stay with the ocean」であってほしいと思った。

 菅原昭彦会頭さんの話を聞いた。「食」がどれほど地域の中心にあるのかを知った。「食」を見ることで暮らし、産業、文化、自然環境のすべてのつながりが見えた。さらに「食」は生きるうえで最も重要であり、1日の中でも最も考える時間が多く、しかも誰でも関わりやすい。地域の人も関わりやすいので「食」に興味を持ってもらい、他のことも興味を持ってもらえると、より地域が一体化していくと思った。

 特に印象に残った点は、菅原会頭さんがおっしゃっていた「スローシティというワードはパソコンのOSのようなもの」という話だ。気仙沼市民は、スローシティを無意識に行っていて、スローな活動を自然に行っている。そのため、スローシティについて説明しても、「当たり前でしょ。」と返答されてしまうらしい。私は、まちの景観や郷土料理を守る活動が、自然に出来る気仙沼市民は素晴らしいと感じた。一方、「スローを意識しすぎると、最終的に人間がいなくなる」という話を会頭さんから聞き、スローとファストのバランスが大事であることを理解した。スローを過度に意識すると、自然環境を汚染しているのは、人間である。そのため、まちの自然環境を守るために、人間は必要ないという恐ろしい考えが生まれてしまう。自然環境を守ることは大切だが、ただ守るだけでなく、共存することが大切であると知り、それが「海と生きる」という気仙沼市のスローガンに関係していると思った。

 お話を聞く中で私個人として印象に残ったのは、3点あった。1点目はファストを蔑ろにするわけではなく、たまにはスローに生きよう(人間らしく)という考えである。今までスローなまちづくりにおいてファストは排除すべき存在のように思ってしまっていた。だが、実際にスローシティである気仙沼の活動では、ファストという存在が排除されてはいないことに気づき驚いた。これは自分の認識のズレに気づける良い機会であったと考える。2点目はスローシティやスローフードという名前がつくということの重要性である。その名前自体に価値がなくとも、名前がつくという事自体に、ないことに価値が出る感じがするんだと気づいた。例えば、「この町田舎だよね」ではなくて、「スローシティなんだよ」の方がかっこいいし、だってもう中身は伴ってる。それなのに気づいてない人が多いから、名前がつくことの効果はすごいと思った。3点目は、震災はいい意味でも悪い意味でも、その地域に元々あった変化を促進する作用があるということである。実際、気仙沼では東日本大震災をきっかけにスローシティが加速していった。そのポテンシャルはずっと持ち合わせていたということである。他の地域での震災後のまちづくりの変化についても調べてみたいと思った。

(東洋大学国際学部3年 川本さん)

3. 気仙沼地域エネルギー開発株式会社にて

 バイオマスプラントは2016年から本格可動をした。東日本大震災からの復興として、今までの気仙沼よりも良いまちにするために、地元の材料を使って何かできないかが設立のきっかけであるという。震災当時は復旧までガソリンや電気がなく、自分たちの地域内でエネルギーをまかなうことができなかった。それができるようになれば、有事の際にも対応できる。私が大学の地域研修で参加した能登でも、地域は被災しているが自分たちの地下水や薪風呂で生活することができている。時には不便だったり、採算が取れなかったりするかもしれない。だが「スロー」の観点でもある自給自足は、こうした非常時のメリットも大きいと改めて感じた。

 日本初の小規模バイオマス発電所であり、地元の森林から伐採した間伐材のみを使って発電し、エネルギーだけでなく熱も暖房や熱源として使っている。二機発電機が可動しており、約1600軒分の電気を発電しているそうだ。お話の中で、日本初のプロジェクトで試行錯誤しながらだったため大変だったが、その過程が楽しかったというコメントがあった。何年もかかって大変なこともあったと思うが、その過程を楽しむことができるその気持ちがすごいと思った。

 事前学習で気になっていた地域通貨「リネリア」についてのお話も聞くことができた。林業からリネリアの仕組みを生み出し、商業の活性化を促進し、そして間伐を行うことで良い環境を整え、漁業まで影響を及ぼすことができる。良い取り組みであると感じた。その仕組みとしては、木材を買い取るときに山の所有者から2倍の値段で買い取ることで、その上乗せ分をリネリアで支払うものである。今回私たちもリネリアを受け取ったので、これを使うことで私たちもこの循環の一部になることができ、嬉しい。

 NPO法人リアスの森応援隊についてお話を聞いた。もともとは、林業にかかわる人を増やし、木の価格をあげることや新しく林業にかかわる人を増やすことが目的だった。その目的が軌道に乗り出したので、現在はthe・気仙沼という文化の保存と継承を目指すことにシフトしつつあるという。林業に関わる若い人材を増やすために地域おこし協力隊として林業に興味がある都会の若者を呼んでいるというお話を聞きした。地方では「地域おこし協力隊」が重宝され、キーワードになっているのだなと感じた。

 森ワーカーとして間伐をおこなってもらっているおじいちゃんたちに給料の支払いを5:5で現金とリネリアで支払いしている。この点については確かに地元にお金が入るのは良いが、リネリアの使い道があまりないのも難点であるなと感じた。リアスの森としても運営がかなり厳しく、ギリギリで支払いをしているというお話を聞きした。地域に良い影響を与える活動をしている人たちが儲けることのできない現状を改めて感じた。もちろんお金のために働いているのではなく地域のために活動していると思うが、自分自身もそういう仕事がしたいと考えているため、お金を稼ぎながら地域で活動できる選択肢はないのだろうかと思ってしまった。

そして、ここでも菅原会頭が仰っていたように、名前がなかった文化を守るために活動しているというお話を聞くことができた。地域のおじいちゃんやおばあちゃんたちは当たり前すぎて名前がなかったが、そのような昔からのものを残すイベントも行っているそうだ。森の中で炭窯を使ってパンを焼くイベントはとても楽しそうだった。「食」から人と人を繋げて文化を守っていくのはやはり良い手段だと感じた。前橋赤城スローシティの食イベントにも通ずるのではないか。

(東洋大学国際学部3年 近能さん)

4. 内湾地区スクエアシップにて、学生の研究発表「東京からスローシティ前橋赤城と気仙沼をつなぐ」

 いよいよ発表の時間になった。私が想定していたのは、スローシティに興味のある若い人や移住してきた人たちが来てくださるのかと思っていた。だが、市役所の人や商工会議所の役員さんたちが来てくださった。あまりにもスーツの方が多くとても緊張してしまった。先生の発表も思っていたより早く終わってしまったので、すぐに私の番が来てしまった。前日に完成したスライドに全く練習をしていない状態で臨んだので大丈夫だろうかと思ったが、これまで経験してきたことや比較的多く他の学生よりも前橋に行って、感じたこともあるので、割とうまく発表することができた。10分ほどの時間の制限だったが15分も話してしまい少し申し訳ない気持ちになったが、メモをとりながら聞いてくださったり、発表後にしっかりとした質問をしてくださったりと、学生ではあるが同じ立場で向き合ってくださったのかなと思っている。

 特に、先ほど話した高校生が核心をつく質問をしてくれた。「元々スローな生活をしている人たちは、それがスローだとは思っていないので、スローシティという名前をつけることにメリットはあるのか。また、外部の人たちがそれをスローだと名づけているので本来のものではないのでは。」という質問だったと思う。私もマルシェで質問されたり家族に自分がやっていることについて聞かれたりした時に、どう説明して良いのか分からないまま活動をしてしまっていた。この質問をされて、本当にその通りだと思ったが、今日、菅原会頭さんや気仙沼市長さんが話してくださったことが答えだと思ったので、その通りにお話をした。

 発表が終わると、武蔵野大学の先生が突然グループワークをして大人の方から感想を聞きましょう!と言ってくださったので5人程度のグループでグループワークを行った。私の班は、高校生とゼミ生、市役所の方、そして武蔵野大学の先生のお友達の方のグループだった。実際に仕事でスローシティについて日々考えている市役所の方と、今日初めてスローシティを知った学生と大人の方というメンバーで感想を聞いていて楽しかった。市役所の方からは、「今後スローシティに加盟する自治体を増やすためにどんな点を押し出していけば魅力的に感じてもらえるのか」という質問をいただき、先生のお友達の方からは「ウェルビーイングにも通ずるものがあると感じ、初めて聞いた単語だったがすごく良い取り組みだと思った」という感想をいただいた。他グループでも、「カタカナなので世代によってはわかりづらい」や「変に名前をつけてしまうと固定概念が生まれてしまうのでは」という質問があった。この議題は普段私たちが活動していて思ったことがなかったので、3年生とも話し合ってみたいと感じた。

(東洋大学国際学部4年 渡部さん)

 一緒のグループだったゼミ生が船橋市に住んでいるのだが、「そういった比較的都心の地域でもスローシティの活動をすることはできるのか」という鋭い質問を市役所でまちづくりに携わる方から頂いた。スローシティと言えば勝手に少し田舎の地域をイメージしてしまっていたので、その視点は目から鱗でとても興味が湧いた。僕は生まれ故郷の新潟県糸魚川市に何か貢献できることを見つけたいと思い鈴木ゼミを志望したのだが、この質問を探究すれば、もしかしたら今住んでいる東京都東大和市にも何か貢献できると思うので、これから考えていきたいと思う。

 自分達の発表に対する質問コーナーで1人の方の提案で大人の方々と意見を交換する機会がありました。そこで「田舎ではなく都会ではスローシティ運動などをすることは出来ないの?」という質問をもらった。田舎でしか出来ないものだと勝手に思っていたけれど、「たしかに田舎じゃなくてもスローシティ運動をすることはできるな」と気付かされました。実際小、中学校の給食の時「今日は船橋でとれた野菜を使っています。」という日があったことを思い出しました。気仙沼や前橋だけじゃなくほかの県や町でもできるのでは無いかと思いました。なので、「これからどういう活動をして行きたいの?」という質問には「自分の街でもスローシティ運動をしてみたい」と答えました。

(東洋大学国際学部3年 近藤さん)

5. まちを歩く、食べる、楽しむ

<その1>

 気仙沼駅に着いた際にピカチュウの像がお出迎えしてくれた。初日の気仙沼の天気は晴れ、風は冷たいが東京とあまり気温差は感じなかった。宿に寄り、昼食に向かう道中に歩いている人がほとんどいないことに気づいた。後の研究発表に来てくださった方からも伺ったが、気仙沼の人達の移動手段は車が主であるようだ。また、風景が千葉の銚子に似ていると感じた。同じ港町の田舎という共通点があるからであろうか。

 12時15分「浜の家」で昼食。マグロ丼を女4人で食べた。すごく美味しくて早起きの疲れが吹っ飛んだ。同じお店に居合わせたマダムに声をかけていただいて、「東京から来てくれたんだって〜うれしいね〜」 と笑顔で答えてくださり、これからも3日間がさらに楽しみになった。お店の方もとても優しく、気仙沼の人々の暖かみを感じる。店員さんの訛りはあまり強くないように感じた。

 市役所を後にし、12時20分「気仙沼生鮮館やまひろ」で昼食。地元の方々で店内はわりと埋まっていた。その日にとれたおすすめの刺身で構成された定食が人気らしかったので、マダイの刺身を頼んだ。今まで食べたマダイの中で最高に美味しかった。後日談ではあるが、家に帰って早速マダイを食べたところ、やまひろのマダイが恋しくなった。

 バス停は全て屋根付きのしっかりしたものでバス専用道路もあった。私はJRのバスがあることを知らなくて初めて利用したので新鮮だった。調べると東日本大震災での復旧にあたってできるだけスピーディに安全で便利な高速輸送サービスを提供できるように「BRT」の運行が開始されたことがわかった。市内循環バスも見かけたが、「BRT」も通勤通学に利用している人が多く見られた。災害時はもちろん日々の生活にも役に立っており良い復旧案だと思った。

 昼食では事前に調べてくれていた「浜の家」に行こうとしたけど、満席だった。そのため近くの「やまにし」に行った。僕が頼んだ天丼は海老が2本入っていて大満足だったが、隣に来たマグロ定食は20cmくらいの骨に身がついたまま提供されていて、そっちにすれば良かったなと思った。「新鮮な海鮮を格安で食べれるのも、大きな漁場がある気仙沼ならではだな」と感じた。

(東洋大学国際学部3年 鈴木さん)

<その2>

 伝承館を出た後、男子学生メンバーは地元の銭湯「友の湯」に行った。そこでは店主から「先生」と呼ばれている年配の方とお湯に浸かりながらお話しすることができた。その方は銭湯の洗い場の鏡には、それぞれにスポンサーとして気仙沼のお店の名前と電話番号が書いてあるんだよと教えてくれた。見てみると確かに端の方に書いてあり、お話ししていなければ気づかないままお風呂から出ていただろうなと思った。また、その方はその鏡に書いてある電話番号が気仙沼の前の市外局番であり、市外局番が変わる前からここの銭湯に通っていることも教えてくれた。長い間地域に根ざしている銭湯で地元の方と交流する ことができ、心も体もあったかくなった。

 夜ご飯は1日目の銭湯で「先生」と店主がおすすめしてくれた居酒屋「ぴんぽん」へ全員で行った。お店では豪華な刺身の盛り合わせや鰯のフライ、珍しいマグロの心臓の弁の刺身などを食べながら仲間ととても楽しい時間を過ごした。

(東洋大学国際学部3年 秋保さん)

<その3>

 3日目は自由行動だった。朝9時に生徒みんなで集まって海の市に行って海鮮丼を食べた。私はいくら丼を食べた。そこでもらったリネリアを使わせてもらったため元々より1000円も安く食べることができたし、リネリアを使うことで少し地元民になれた気がした。だけど店員さんにリネリア使えますかって聞いた時に「はてな?」な顔をしていた。まだまだ浸透していないんだと思った。その後お土産を見て、家族にフカヒレスープやエビなどをお土産に買った。ほやぼーやのキーホルダーもゲットできた。みんなでプリクラも撮れて嬉しかった。そしてみんなで温泉に入りに行った、外にも中にも温泉があってとても気持ちよく、3日間の疲れが取れた。

(東洋大学国際学部3年 川本さん)

<その4>

 近くのホテルで温泉に入った。露天風呂もあり暖かく幸せだった。脱衣所で90歳の地元の方と少しお話しできた。ホテルだったので観光客しかいないと思っていたので地元の方も利用するのが意外だった。その方が、「気仙沼はご飯が美味しいのが一番よ」とすごく幸せそうに話してくださって、自分の地元の好きなところを紹介できるなんてなんて素敵な事だろうと思った。歩いてホテルまで帰ったのだが、少し冷たい風が心地よく感じた。

 帰りの電車ではずっと寝てしまった。東京駅に到着し、人の多さにげんなりしてしまった。

今回に向けての事前学習で私は震災とスローシティの関係について調べた。今回関わりをいただいた方々のお話はネットには書いてない事ばかりで、それを聞けたので気仙沼に来れてよかったと思う。スローシティという言葉にこだわりすぎず、何のために何をしているのかという目的部分を忘れずに今後の活動を行っていきたい。

(東洋大学国際学部3年 鳴海さん)

6. ふりかえり

 この3日間を通してスローシティに関してより深く考えることができた。スローシティという言葉はぼんやりとしていると思っていたが、地域にとって名前が無くて当たり前のことであっても、 名前が無くて認知しなければ、地域は画一的に変化してしまうためスローシティという名前を付けたと解釈した。またスローシティは目的でなく手段であると認識することが、スローシティを深く理解するうえで大切であると気づけた。また、フィールドワークでしか体験できないことの重要性にも気づくことができた。そのため、今後も様々な地域へ行き、新たな発見をしたいと思う。(東洋大学国際学部3年 秋保さん)

 気仙沼での三日間の生活は多くの気づきや魅力を得ることができた。気仙沼の飲食店の中にはチェーン店が少ないと思った。チェーン店がいくつも並び似たような光景がどこでも見られるのが日本の特徴の一つであると思うのだが、気仙沼はこれに当てはまらないだろうと感じた。地元の食材を使う地元店がたくさんあり、どこも東京と比べ下手をすれば半分程度の価格で提供していた。また、これは東京に戻って気づいたのだが、気仙沼の空気には匂いがなかったと思い出した。東京はガスやアスファルトの匂いなどで満ちていると感じた。2日目の発表後に社会人の方達とお話する機会があった。その時に出た意見としては 、「スロー〇〇」といった固有名詞がつくことで考え方や概念が固定化されてしまう危険性やスロー活動を意味や意義、名前を理解し活動している世代を高齢者、子供、学生にまで広げ、幅広い世代に認知してもらうことが必要という意見が出た。今までどうしてその考えが思いつかなかったのかというくらいに確かにと思うものばかりだった。社会人の方と話すことで自分の真剣な意見を共有したり、思考の幅を広げることができ、今回のフィールドワークで一番の貴重な経験になったと思う。(東洋大学国際学部3年 竹村さん)

気仙沼での3日間を通じて、僕は実際に現地を訪れることの重要性を知った。津波の映像はテレビで見たことがあったけど、旧向洋高校や津波がどこまで来たかを表す標識を見て、どれだけ自分が津波の恐ろしさを理解してなくて、他人事として捉えてたかを思い知った。また、気仙沼は事前学習である程度調べてはいたけど、現地の人との交流や五感で身をもって感じたり気づいたりすることが数えきれないほどあった。これからも座学だけではなく、実際に現地を訪れて感じたり、学んだこと を大切に、ゼミ活動を行っていきたい。(東洋大学国際学部3年 堀金さん)

 3日間の研修を終え、私がまず感じたことは活動の集大成だったということである。もちろんこれからも前橋での地域活動は続いていくが、2年秋にスローシティについて座学を行い、3年生で本格的にスローシティで活動し、実践をする。そして今回の気仙沼で、地域で活動をして終わりではなく、自分達が行ってきたことを発表した。それについていろんな分野の人から質問や感想を頂き、またそこから自分達の活動を振り返り学びを深めることができたのではないかと思う。気仙沼では、強い思いを持った人たちに会うことができたが、「スローシティ」とわかるような看板やポスターを見つけることができなかった。前橋にはスローシティのロゴのカタツムリがあったり、観光施設にポスターがあったりするが、気仙沼にはないのだろうか。気仙沼から持ち帰ってきた観光マップやフライヤーを確かめてみたがそれらに記載は一切なかった。なお「おかえりモネ」のプロジェクト委員会が作成した「KESENNUMA PRIDE パンフレット」にはスローフードやスローシティについてまとめられていた。正直、住んでいる人たちは無意識に「スロー」を行っていると思う。だが、本当にスローという文字が見当たらなかったので、地元の人たちはどのくらい知っているのだろうか。また、3日目の飲食店でもリネリアを使うことができたが、リネリアという名前を最初に出した時は、店員さんは「?」という感じだった。リネリアもそこまで普及していないのかと思ってしまった。今回は期間も短く、インタビューなどもあまりできなかったので、前橋と比較して日本の2都市でどの程度知名度があるのか調べてみたいと感じた。この3日間で得られたものは今後の活動にも生かすことができる貴重な経験だったので3年生にも活動報告をしたい。(東洋大学国際学部4年 渡部さん)

*令和6年2月10日の三陸新報に記事「スローシティ学ぶ―前橋で取り組む東洋大生」が掲載されました。

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